二中ができるまで…中学校誘致運動と開校


           

三鷹二中は、昭和28年、三鷹市で2番目の中学校として開校しました。

それまでは三鷹の中学校は三鷹中学校(現一中)1校だけでした。

昭和22年当時674名(分校を含む)であった三鷹中学校の生徒数は、

戦後の人口増加で膨れ上がり、昭和26年には2,000人を超えました。

さらに昭和24年からは、町立三鷹高等学校(現三鷹高校)が併置されており、

生徒数増加の上に2校同居というきわめて厳しい状態にありました。

PTA連合会をはじめ各方面から市当局へと請願がなされ、

昭和28年に二中と三中が開校される運びとなったのでした。

(この年には六小も新設されており、まだ発足間もない教育委員会は、
同じ年に3校が同時開校という一大事業を経験することになりました。)

二中が現在の場所にできるにあたっては、この地域の保護者が中心となり

積極的に誘致運動をしたということが、当時の二小の学校新聞に記されています。

地域の方々の熱い思いが二中開校の礎となったのです。

昭和27(1952)年11月、第二中学校の建設が着工されましたが、翌28年4月の開校には間に合わず、

暫定的に第一中学校校舎を間借りする形で開校しました。

5月18日竣工、20日に新校舎に移転。…こうして二中が始まりました。

聞くところによると、開校当時の二中生は、校地を開墾し、校庭整備をしたとか…

次回は是非このお話を取材してお届けしたいと思います


  


開校当時の二中生の生活(その1)


昭和28年4月、2年生と1年生だけで三鷹二中は始まりました。

校舎の完成が開校に間に合わず、一中の校舎を借りてのスタートです。

一中の校舎は、まだ戦後間もないころの住宅を改造して教室にした建物で、

教室の中には柱が何本もあり、生徒たちは黒板を見る際には柱をよけながら見るような状態でした。

教室の床は1重で、2階の床の隙間からゴミを落とすと下の教室に落ちて来たものでした。

5月、いよいよ二中の新校舎もでき上がり、現在の場所に引越しです。

なんと、生徒たちは、各自の椅子を持って、一中から二中まで、ゾロゾロと列をなして歩いて来たということです。

校舎はできたものの校庭はまだ造成中、二中が建てられたあたりは、当時一面の松林で

(現在残っている「あかまつ」はその名残りです)、

校庭には大木が切り倒され、ICUから借りたというブルドーザーが地ならしをしていました。

初代の二中生たちは、自宅からシャベルや農具を持ち寄り、放課後になると、毎日のように校庭に出ては、

この松の大木の根を掘り起こし、整地作業を手伝いました。

ある程度整地されたら今度は草とりです。体育の授業も、夏休みの全校登校日にも、草取りがありました。

しかしこんな大変な作業をしながらも、生徒たちの間には、 自分たちの学校を良くしようという空気が充ちていて、

みんな熱心に働いたのでした。3分の1ほどグラウンドができた秋の頃、初めての運動会がありました。

自分たちで開墾したグラウンドでの運動会、生徒たちの喜びもひとしおだったことでしょう。


前回、エピソード1の中で、二中ができるまでには、地元の方々の熱い思いと熱心な誘致運動があったことをお伝えしましたが、
二中の初期の先輩たちも、同じように熱い思いで二中を築き上げて来たのですね。諸先輩のご苦労に感謝、感謝です。
次回も、引き続き開校当時の二中生の生活についてお届けする予定です。
初期の学校内外のようすやクラブ活動など取材したいと思います。お楽しみに。

 永井 三恵 >

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